先日、次のような記事があった。
松島さんは、これまで週1、2回スーパーで購入していた480円の刺し身を購入できなくなり、果物も100円のバナナしか買わなくなった加算廃止後の厳しい生活実態を吐露。友人に旅行に誘われても断っているといい、「惨めな気持ちになる」と述べた。
痛いニュース(ノ∀`) : 生存権訴訟 「旅行の回数減らした」「480円の刺身が買えない」「子供の散髪は年数回」 - ライブドアブログ以前の生活との比較に主眼がおかれているようにも見えるが、ポイントは「惨めな気持ちになる」というところだろう。やはり相対的な基準こそが問題なのだである。他者と比較して十分に与えられない状態というのはつまり、相対的な剥奪を受けている状態なのだ。
このことからわかるのは、すべての人が満足する状況というのは、いまやあり得ないということである。いくら人類が栄え、人々が富み、トリクルダウン効果によって生活水準の最低ラインが向上し、誰しもが食うには困らない状況が実現したところで、相対的な差は厳然と存在する。
この相対性に対する絶対化は、情報通信技術の発達によって、(相対的に)貧しい人たちが富める人たちの生活実態を把握する手段を得た時点で不可逆的な流れとなったと思う。情報通信技術が発達した豊かな社会であるほど、格差が問題視されるのだ。つまり、この先いくら経済が発展しようと、生活が良化しようと、格差の問題が解決される可能性はまったくない。
最近、ベーシック・インカムなる社会制度が注目を浴びているようだが、すべての人が最低限の生活を保障されるということは、その生活をしていては差異を確保することができないということである。結局我々は、同制度の導入前よりも更に労働に従事することになるだろう。